デザイナーの現代的な感性と職人が受け継ぐ伝統の技術を山中漆器に活かし、新しさと伝統が融合した漆器を発信しています。
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我戸幹男商店(がとみきお しょうてん)は、1908年、初代が我戸木工所として創業したのがはじまりとされている。現在この店で新しい製品の企画を提案しているのが四代目にあたる我戸正幸氏だ。 もともと、漆器の原形となる木を加工する、いわゆる「木地職人」だったが、二代目 幹男氏の頃から、木地師を雇って商売するかたちに変わる。そして三代目の彰夫(あきお)氏と宣夫(のぶお)氏〈彰夫氏は正幸氏の父であり、宣夫氏は叔父にあたる〉が、初代からの木地師の意思を受け継ぎ、その後、彰夫、宣夫の二人の頭文字を取って「彰宣(しょうせん)」というブランドが生まれている。 正幸氏は、製品をデザインする「デザイナー」と確かな技術を持つ職人たちとの橋渡し役として、新しい山中漆器を発信している。「不易流行を、仕事のモットーにしています。例えば、新しい製品を創るとき、何か売れるものはないか?変わったものはないか?爆発的に売れるものはないか?と探してしまいがちですが、奇をてらわない漆器を創りたいのです。私はデザイナーの方に、10年、20年経っても廃れないデザインをしてくださいとお願いします。月日が経つほどに、にじみ出るようなデザインで、美しい、きれい、すごいと言われる、そんな山中漆器を創りたいのです。しかし、デザイナーの方が考えるデザインですから、今までの漆器の概念にくらべたら、新しいスタイルの素敵なデザインが提案されることが多いんですよ。で、その今までにないカタチを実現するために、今度は昔ながらの山中漆器の技術を活かすわけです」。 変わらない山中漆器の伝統の技を「不易」、現代に生きる感性から生まれるデザインを「流行」と捉え、このふたつを融合し、新しい漆器を生みだすのが正幸氏の仕事の流儀なのだ。 |
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山中漆器といえば、 全国一の「轆轤(ろくろ)挽き」産地として有名である。山中漆器は、卓越した技を持つ「木地師」によって支えられているといっても過言ではないだろう。 「木を加工する轆轤(ろくろ)の技術や精度は、山中漆器の代名詞ですよ。合口物などの精度を高める『縦木取り』、木地が透ける程に薄い『薄挽き』、無数に施される筋『千筋』などの加飾挽きは山中独自の技術で、山中の木地師にしかできない技術です」と正幸氏。 現在、デザイナーが12人、木地師が20人、そのほかに、塗り師、蒔絵師などを束ねる、いわゆるプロデューサー的なポジションでデザイナーと職人のコーディネートをしている。「デザイナーの提案してくる斬新なデザインに対して、昔気質の伝統を重んじる職人さんの中には抵抗感を感じる方もいます。そこを上手く調整して、製品を完成させていくのが私の仕事の醍醐味です。でも私は職人泣かせでしょうね。無理ばっかり言ってますから(笑)」。 |
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我戸幹男商店の製品のひとつの特長として、木目の美しさがある。創業のころから、木地師が一つ一つ丁寧に挽き上げた木地の完成度を大切にして、決して隠すこと無く豪快に木目を見せる。「木目を見せるということは、裏を返せばごまかしが利かない、ということです。素材、木地の精度、透明感のある拭漆(ふきうるし)、すべてが完璧になったとき、ひとつの製品ができあがるわけです」。職人たちが受け継ぐ山中漆器の高い技術を活かした実用性と、デザイナーの感性が生みだした和の美意識に基づいた高い芸術性。これらを融合した不易流行の漆器について語る正幸氏は、とても情熱にあふれていた。 芭蕉が唱えた不易流行という俳諧の論「目標とすべき理想の句は、時代と共に変化する流行(流動性)を含みながらも、永遠性を持つ詩心(普遍性)が備わっている句である」。この言葉に込められている俳句づくりの心構えは、奥の細道ゆかりの地にある、我戸幹男商店の漆器づくりの流儀にも受け継がれている。 |
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