デザイナー尾崎氏とのコラボレーションにより、金属の素材感や質感を活かした高岡の伝統工芸を新しいカタチで展開する
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1974年10月22日に富山県高岡市の老舗 株式会社 道具の3男として生まれた志朗さんは、地元で小・中・高を過ごし、富山大学を卒業したという生粋の富山人。
小学生時代ですでに独自のプログラムを組むような友人に囲まれ、自然と業界に興味を持ち始める。中学で将来プログラマーを目指し、高校進学時には専門の勉強にのめり込むようになった。 |
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志朗さんは男3人兄弟の末っ子。また双子の弟で、双子のお兄さんは医者を目指していた。長男は埼玉県の鋳物会社で既に修行をする跡取り候補の第一人者。家業とも付き合いが深い鉄の鋳物会社で、鋳物の世界や経営について学び、実家を継ぐというシナリオだったそう。そのお兄さんがお正月の宴席中、「俺、家継がんよ」と発言したことをきっかけに大騒動になった。そもそも兄が継ぐ事に何も疑問を感じていなかった志朗さんだったが、兄が継がないとなったことで、跡継ぎ問題は暗礁に乗り上げる。双子の兄は医学大学を卒業し、国家試験も受けてあとは発表待ちという状態。そうなるとご両親や従業員の期待は志朗さんのみ。その後、両親と三人になった際、志朗さんは、五代目を継承することを約束した…がしかし、それには条件があったという。「私が継ぎますが、就職は決まっているので、企業にも迷惑はかけられない。だから3年間待って欲しい、と言ったんです。」と志朗さん。 |
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家族・従業員への約束と共に、神奈川県の会社へ就職してから1年後のお正月に実家に戻ると、さらなる転機が訪れる。インターネット電話開発プロジェクトに参加し、ものづくりへのチャレンジを始めた矢先だったが、実家に帰ると空気が重たく感じたという。 |
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いよいよ家業を継ぐ事になったが、最初は不安だらけのスタートだった。なにせ、25歳で鋳物に対する知識はほぼゼロ。鋳物に関しても、業界についても知識がなかった。ご両親に「他の会社へ修行に行かなくていいの?」と尋ねても、「一度外へ出るとどこに行くかわからないから」と言われ、修行も経験できなかった。業界では素人と思われ、肩見の狭い時期もあったという。その時も志朗さんは決心をする。「ぼくにはプログラムの知識しかない。ならば会社運営にコンピュータを持ち込もう。同時に現場のことを覚えていこう」と一念発起。8ヶ月でその目標を達成する。 |
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4歳のときに4代目であるお父さんが病に倒れる。その時点で父の技術を完全に継承していなかった志朗さんは、懸命に生の伝統技術習得に励むが、1年後お父さんが亡くなられる。 悲しみの中にいたが、お父さんの意志を継ぎ正式に社長に就任したことがきっかけでさらなる企業努力の道へ進む。試行錯誤のうえ出来上がったのが、生型と金型の技術を有したことでコストを見直した今の事業形態であり、新たな道具の鋳物事業への挑戦だった。 |
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ほどなくして、志朗さんの新たな方向性を目指すきっかけとなる出会いが生まれる。当時、高齢化する業界への危惧と、技術の継承と自社の若返りを考えていたとき、高岡伝統産業青年会の同志、青井 一暁さんから職人を目指す尾崎 迅さんを紹介される。現道具のデザイナーである。もともと大阪で自転車を作る仕事をしていた尾崎さんもいろんなご縁で高岡へ移住してきた矢先だった。この出会いが、株式会社 道具へ新たな可能性を生む大きなきっかけとなる。 |
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高岡の鋳物業界は、熟練された職人たちがひとつのものづくりに携わる分業の世界。それだけに職人世界の後継者不足も問題となっていた。志朗さんと尾崎さんを結びつけた青井さんも、そんな高岡の伝統産業の未来を心配していたひとりだった。 |
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まだ始まったばかりのブランド化ではあるが、徐々に作品が生まれつつある中で、志朗さんの構想も広がっている。花瓶やキャンドルホルダーも尾崎さんのデザインをもとに新たな取り組みで生まれた作品である。 お客様には、「金属の素材感を全面に押し出した作品をつくり、鋳物の良さを道具ブランドの中に見つけてもらいたい」と語る志朗さん。株式会社 道具の作り出す新たな融合のカタチは、未知数だ。 |
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